改変の概略

前提条件

  • フラグ:エリザヴェータ女王が1年だけ長生きする。
  • 結果:「ブランデンブルクの奇跡」が起こらない。七年戦争がプロイセンの敗北に終わる。
(The victory of petticoats: 外交革命期のヨーロッパ外交は、神聖ローマ帝国のマリア・テレジア、ロシア帝国のエリザヴェータという二人の女帝と、ルイ15世の妻ポンパドゥール夫人が主導して行われたことから「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。史実ではエリザヴェータが1762年に死去し、後を継いだホルシュタイン=ゴットルプ家のピョートル3世が突如対プロイセン白紙講和に踏み切ったことでプロイセンは七年戦争に勝利し、これは失敗に終わった。俗にブランデンブルクの奇跡と呼ばれるこの出来事は、ドイツの「逆転神話」の一つであり、第三帝国の総統ヒトラーも第二次世界大戦末期にフランクリン=ルーズヴェルトが死去したことによりこの奇跡を期待したという。)

講和条約

フベルトゥスブルク条約
  • プロイセン王国はシュレジエン公国の中部・東部とグラーツ伯領をボヘミア選帝侯(ハプスブルク家)に割譲する。
  • プロイセン王国はシュレジエン公国の西部(リーグニッツ周辺)、マクデブルクとコットブス市をザクセン選帝侯に割譲する。
  • プロイセン王国はクレーヴェ公国をバイエルン選帝侯に割譲する。
  • プロイセン王国はヒンターポンメルンをスウェーデン王国に割譲し、スウェーデン領ポメラニアは1653年のシュテティーン条約で定められた領域を回復する。
  • プロイセン王国はプロイセン公領をロシア帝国に割譲する。
 結果として、プロイセンはオーストリア継承戦争で得たシュレジエンを返還し、その国力を大きく衰退させることとなった。更に、オーストリアに協力したザクセン・バイエルンの両選帝侯は領土を伸ばし、ザクセンはプロイセンと並び立つドイツ東部の大領邦となり、バイエルンはラインラント地方への影響力を拡大した。エリザヴェータ女王はプロイセン王国からプロイセン公領を取り上げてポーランド領クールラントと交換し、ロシア帝国の更なる南下を推進した。
パリ条約
  • グレートブリテン王国はフランス王国にハドソン湾植民地とアカディアを割譲する。
  • グレートブリテン王国は、戦争中にアカディアから強制的に追放したフランス系住民の帰還を承認し、これを援助する。
  • フランス王国は北サルカール(旧ニザーム王国領、1753年にアウランガーバード条約により割譲)の領有を承認される。
  • フランス東インド会社はシャンデルナゴル商館の地位を回復する。
 パリ条約は、インドにおけるイギリスの影響力低下を決定づけるものとなった。イギリスに比べ海上勢力に劣るフランスは東インド会社の経営にこれまでも苦労してきたが、領土と権益の拡大は支出の増大を意味する。この傾向はさらに強まるだろう。フランスとインドの往来にはカピチュレーションと呼ばれる商業特権を得たオスマン帝国のフランス商人が活躍しており、フランスとオスマン帝国の同盟関係はインド経営にあたりなくてはならないものとなるに違いない。

その後の歴史

フランス革命まで

第四次カーナティック戦争
 マイソール王国のスルターンに就位したハイダル・アリーは強力な拡張主義政策を展開し、1766年までにケラディ・ナーヤカ朝やトラヴァンコール王国を侵略して南インドの大半をその版図とした。これに対し、デカン高原に位置するマラーター同盟はこれを脅威としてイギリスに援助を求め、逆にマイソール王国と隣接するニザーム王国は1767年8月にマイソール王国と同盟締結に踏み切った。ニザーム王国にはアウランガーバード条約に基づきフランス軍が駐屯しており、同盟関係にあったため、同月フランスのポンディシェリ総督はマイソール王国に使節を送ってマイソール王国とも攻守同盟を締結した。これを好機としてハイダル・アリーはカルナータカ太守の領土に軍を進め、ニザーム王国軍とフランス軍がこれに呼応してイギリス租借港のマドラスへ進軍したため、英仏間で四度目となるカーナティック戦争が勃発した。第四次カーナティック戦争はマイソール王国により始まったため、(第一次)マイソール戦争とも呼ばれる。
 当時、七年戦争の戦費などで財政難に陥っていた英仏両国は本国からの補給や援軍が不足する中、フランス領北サルカールを巡って泥沼の戦いを続けていたが、1769年にハイダル・アリー率いる騎兵隊がイギリス領マドラスを包囲したことで戦争は一気に終結へと向かった。マドラス救援のためイギリス軍が撤退を開始したところをフランス・ニザーム連合軍が追撃し、ヴィジャヤワーダの戦いで決定的な勝利を収め、イギリス軍はインドにおける継戦能力を完全に喪失した。マドラス条約とそれを追認するカレー覚書により、フランスは北部カーナティック地方を新たに領土として得たほか、マイソール王国とニザーム王国もマラーター同盟とカルナータカ太守から領土を割譲させ、更にマイソール王国はイギリスとの間にマラーター同盟を対象とする防御同盟を結んだ。カルナータカ太守はフランスとマイソール王国によって領土を分割されたことにより、フランス領カーナティックを統治するための名目上の存在となり、更にイギリスはマドラス租借地の存在価値が低下したことにより南インドにおけるプレゼンスを更に低下させた。
 第四次カーナティック戦争は結果的にフランスの勝利という形に終わり、50年以上にわたって英仏間で争われてきたカーナティック地方の支配権はフランスの手に渡った。しかし、この戦争における英仏両国の出費は財政難の両国にとってかなりの痛手となり、それぞれアメリカ独立戦争とフランス革命の原因となった。一方でこの戦争の敗北はイギリスにとっては、1765年にベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー(徴税権)を得ていたこともあり、北東インドの経営に専念するきっかけとなり、1773年にはマドラスから撤退してベンガルとボンベイの2地方を管轄するベンガル総督(初代:ヘースティングス)を設置した。
アメリカ独立戦争
 概ね史実通り。七年戦争の戦費を返済するためイギリスが課した砂糖法、印紙法、茶法などの重税に耐えかねた13植民地は独立戦争を起こし、フランスやスペイン、ポーランドなどは新大陸におけるイギリスの影響力低下を狙ってこれを支援した。1776年に13植民地はアメリカ合衆国として独立宣言を出し、1783年のパリ条約でその独立が国際的に承認されることとなる。ただし、ミシシッピ川以東のルイジアナはフランス領のため、割譲されない。なおフランス領ルイジアナは広いわりにこの時代はまだ入植者が少ないので独立もクソもない。独立当時のアメリカ合衆国の人口が白人だけで220万人に対し、フランス領ルイジアナの同時期の人口は白人僅かに2万人、原住民(インディアン)50万人である。何も搾り取れない。
第一次マラーター戦争・第二次マイソール戦争
 第四次カーナティック戦争に続く英仏間の南インドにおける代理戦争は、デカン高原に位置するインド最大の王国であるマラーター王国で行われることとなった。まずイギリスのベンガル総督であるヘイスティングスがマラーター王国の宰相位をめぐる内紛に介入し、宰相位を主張するラグナート・ラーオとスーラト条約を結んでサルセット島とビルマ南部のバセインの2地方を割譲する代わりにラグナート・ラーオの支配回復に協力することになった。しかしイギリス軍とラグナート・ラーオの軍はマラーター王国軍に敗北し、プランダル条約により割譲地域はサルセット島に限定され、続くヴァドガーオン条約では領土割譲は取り止められた。
 しかし、トーマス・ゴダード将軍の活躍によりイギリス軍は勢いを取り戻し、インド中部にまで進撃してグワーリヤルを陥落させた。この劣勢に対し、マラーター王国は1771年以来国境紛争を続けていたマイソール王国と手を組み、その背後にあるフランスの力を借りようとした。これによりマイソール王国が参戦して第二次マイソール戦争が勃発した。フランスはアメリカ独立戦争を支援している最中であり、財政的にも多くの援軍は送れなかったものの、シュフラン提督率いるフランス艦隊がカッダロール沖海戦で勝利を収め、マラーター=マイソール連合軍の勝利に貢献した。マイソール王国軍がボンベイ方面へ兵を進め、カーナティック地方西海岸のマンガロールとともにこれを包囲したことによってベンガル総督は白紙和平へと舵を切り、1784年にマンガロール条約によって戦争は終結した。これには1783年のパリ条約により、英仏本国間の戦いが既に終結していたことも影響している。
ポーランド分割
 エカチェリーナ皇后は1762年にピョートル3世をクーデターにより廃位し、皇帝エカチェリーナ2世として帝位についた。エカチェリーナ2世は弱体化しつつあったポーランドへの干渉政策を進め、ポーランドをロシアの影響下に置いた。これに反発したのはポーランド=リトアニア王位についていたが、ロシアにより廃位されたザクセン選帝侯 フリードリヒ=アウグスト2世と、ロシアの東欧における影響力拡大を嫌った神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世、そして東プロイセンをロシアに奪われてそれをポーランドに還付されていたプロイセン王フリードリヒ2世であった。そこでこの三国は領土割譲を条件にポーランドの独立を維持することを求め、ロシアもスモレンスクなどの地域を割譲することで妥協した。これが第一回ポーランド分割である。
 その後、ポーランド王スタニスワフ2世は内政改革を進め、1792年には世界初の立憲君主制を目指した5月3日憲法を成立させたが、これはロシアからの干渉戦争を招いた。しかし、これはロシアによるポーランドの完全な併合を望まないザクセン選帝侯にとって不都合であり、ザクセンはポーランド側に立ってこの干渉戦争に参戦した(ポーランド分割戦争)。この戦争には1790年に同盟を結んでいたプロイセンもエルムラントとマリーエンブルクの割譲を条件に参戦し 、ポーランド領内にプロイセン軍を進駐させて降伏に傾きつつあったポーランドに戦争を継続するよう圧力をかけ、幾度かの戦争でポーランド領内に侵入したロシア軍を撃退した。結果的にロシアは干渉を諦めて撤退した 上、プロイセン軍の近代化改革が相応の成功を収めていることを知らしめる結果となった。
(プロイセンは七年戦争の敗北により、史実では芽生える「大国意識」のようなものが、かなり少ない状態となっている。それがピルニッツ宣言や、続くフランス革命戦争に対するやる気のなさに現れる…と思う。)
バイエルン継承問題
 1777年、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世が薨去し、バイエルン公国はプファルツ選帝侯カール4世が継承することとなった。これに対し神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はかねてより狙っていたバイエルン地方をハプスブルク家のものとする好機であると考え、カール4世にバイエルンの割譲を要求した。プファルツが本土であり、バイエルン地方の統治に大して意欲を示していなかったカール4世はこれを二つ返事で了承したが、外交革命で結んだとはいえオーストリアの宿敵であったフランスがこれを阻んだ。更に、オーストリアの拡大を好ましく思わないプロイセン王フリードリヒ2世もこれに続いた。
 結局、交渉はオーストリア領ネーデルラントをバイエルンと交換することで落ち着いた。オーストリア領ネーデルラントはフランスと国境を接するハプスブルク家の所領であり、フランスにとっては3世紀前にブルゴーニュ公国がハプスブルク家に継承されてからの安全保障上の懸念であった。ここと引き換えならば、フランスも南ドイツの一地方にハプスブルク家の勢力が拡大することには異存がなかったのである。更に、フランスは七年戦争と第四次カーナティック戦争の財政的負担から回復しきれておらず、バイエルンのためにハプスブルク家と戦争をする戦費の余裕はどこにもなかった。なお、バイエルンのハプスブルク家による継承を認める代償として、プロイセンにはホーエンツォレルン家の分家が支配していたバイロイト、アンスバッハ両伯領の継承が認められた。
第三次マイソール戦争
 マイソール王国のスルタンであるハイダル・アリーが死去したのち、後を継いだティプーはマラーター王国との紛争により自国の領土を拡大することに余念がなかった。しかし、これはマラーター王国の警戒心を呼び起こし、マラーター王国は徐々にイギリスに接近していった。1789年、フランス革命の発生した年にマイソール王国は逃げ込んだ反乱軍の撃滅を大義名分に掲げ、海岸地方のトラヴァンコール王国に侵攻したが、これはマンガロール条約によって定められた不可侵国の一つであったため、イギリスは条約違反を理由にマイソール王国に宣戦布告した。これにより第三次マイソール戦争が開始された。
 マイソール王国側に立ってはニザーム王国が参戦したが、本国が革命の嵐に襲われていたフランス軍は自由な動きが取れず、野戦で敗退を続けた。この状況に、長年フランスと同盟していたニザーム王国もイギリス側に寝返り、マイソール=フランス連合軍は窮地に立たされた。1793年、マイソール王国はシュリーランガパトナ条約により降伏し、本国が反革命戦争を遂行していたためフランスのインド植民地はイギリスに占領され、フランス・インド方面軍はイギリス軍の捕虜となった。さながらロシア内戦のチェコスロバキア軍団状態である。

フランス革命

革命戦争開始まで
 七年戦争の勝利はルイ14世の消費した莫大な戦費の足しになるどころか、インドと北米の植民地経営によりさらに赤字を拡大させる要因となり、1789年7月のバスティーユ牢獄襲撃によりフランス革命は幕を開けた。フランス革命により第一共和政が成立すると、オーストリアを中心とする帝国諸侯は亡命貴族らの要請を受けてピルニッツ宣言を発し、反革命の立場に立った。これに対しフランス第一共和政のジロンド派内閣は1793年4月に対オーストリア宣戦を布告し、革命戦争を開始した。
第一次対仏大同盟
 革命戦争は当初、南ネーデルラントとラインラントからのオーストリア軍の侵攻により、オーストリア優位と思われていた。イギリスもトゥーロン港包囲によりフランスを海上封鎖し、フランスは窮地に陥った。しかし、国民公会の「祖国は危機にあり」という宣言により、各地から義勇兵が集まり、ヴァルミーの戦いではオーストリア軍を破って逆に神聖ローマ帝国領内に侵攻を始めた。フランスは民族主義と自然国境論を掲げ、フランスの民族領域はライン川により区切られるべきだとしてラインラントの領有を主張した。
 1795年、元々革命戦争にあまり興味がなかったプロイセンはバーゼルの和約によりフランスのラインラント領有を承認することを条件に停戦していち早く革命戦争から離脱した。プロイセンがライン左岸に持つ領土は元々スイス国境部のヌーシャテルのみであり、統治の行き届いていないヌーシャテルと引き換えに再建した貴重な軍隊を失わずに済むのなら安いものであった。フランスは更にオーストリア軍を降し、カンポ・フォルミオの和約により南ネーデルラント、ラインラントを併合し、北ネーデルラントとイタリア北部に衛星国を樹立した。こうして第一次対仏大同盟は瓦解し、フランスはその勢力を大きく広げた。
第二次対仏大同盟と神聖ローマ帝国の崩壊
 イタリア遠征に勝利したナポレオンは、一躍国民の英雄となった。ナポレオンは国民公会に献策して、インドに囚われているフランス・インド方面軍を救出することを大義名分としてエジプト・インド遠征を行うことになる。ナポレオンはピラミッドの戦いで大勝し、カイロを占領したものの、続くアッコンの戦いにおいてオスマン帝国軍に敗北し、ナポレオンはイギリス海軍の跳梁跋扈する中、命からがらフランスへ逃げ帰ることとなった。
 ナポレオンのエジプト遠征によってフランス本土が手薄になった隙をつき、反革命派はオーストリアとイギリスを中心に第二次対仏大同盟を結成して革命政府を転覆しようと試みた。プロイセンは不参加。ナポレオンの帰還によりグランダルメが進撃を開始すると、オーストリアは1801年にリュネヴィルの和約を、イギリスは1802年にアミアンの和約を結んで第二次対仏大同盟は瓦解し、ネーデルラントやラインラントの領有が既成事実化された。更に、フランスのインド植民地は元の地位を取り戻し、マイソール王国の独立は保証され、フランス・インド方面軍は解放されることとなった。
 1803年、ラインラントのフランスによる領有が確定したことでフランスに占拠されたラインラントに領土を持っていたバイエルン、バーデン、ヴュルテンベルクなどの各領邦に対しその補償を行うため帝国代表者会議が召集され、その主要決議の中で反革命側の対抗改革として「世俗化」と「陪臣化」が打ち出された。まず「世俗化」により帝国の各地に点在していた司教領(ローマ・カトリック教会の司教区の世俗所領)はマインツ大司教領を除き全て廃され、その領土は周辺領邦により分割された。更に、「陪臣化」により帝国に300以上存在した領邦は大領邦に統合された。この帝国代表者会議主要決議により、司教領からの税収を失い、中小領邦の伸長により統治の実態を失った神聖ローマ帝国は実態として崩壊することとなった。オーストリアは、ライン川左岸に最大の領土を持っていたにもかかわらず、補償はなされなかった。これは、この会議の裏にフランスがおり、フランスが自国との緩衝地帯としての役割を南ドイツの中小カトリック領邦に求めていたことに起因する。
第三次〜第四次対仏大同盟
 1803年、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランス帝国に宣戦布告し、3度目となる対仏大同盟戦争が幕を開けた。ナポレオン率いるフランス軍はトラファルガーの海戦に敗北し、イギリス上陸をすることはできなかったものの、ウルム戦役に勝利してオーストリア本土へ侵攻し、アウステルリッツの三帝会戦に勝利したことでこの戦争におけるフランスの勝利を決定づけた。1805年に結ばれたプレスブルクの和約により、オーストリアは旧ヴェネツィア共和国領のフランスへの割譲など更なる譲歩を迫られた上、フランスと同盟を結んでライン同盟の形成に動いていた南ドイツの領邦に対しても領土割譲を行わざるを得なかった。
 フランスの進撃とオーストリア・ロシアの敗北により、5月3日憲法の成立によって比較的開明的であったポーランドはセイムの決定により1805年にフランスとの同盟締結に踏み切った。これに対し、ザクセン選帝侯とポーランド王を兼ねるフリードリヒ・アウグスト1世はプロイセン王国と歩調を合わせてフランスへの対抗姿勢を鮮明にし*1、両国は対仏大同盟に加わってここに第四次対仏大同盟が結成された。
 しかし、プロイセン軍はイェナ・アウエルシュタットの戦いに敗北し、ロシア軍もフリートラントの戦いで壊滅したことにより1807年にティルジットの和約によって講和が成立した。これによりプロイセンはドイツ西部に持っていた所領を全てフランスの同盟国に奪われ、ザクセンも本土の半分をフランスの同盟国に占領された上にポーランド王を退位させられた。更にプロイセン、ザクセン、ロシアの三国はポーランド分割で得た領土を全て返還させられることとなった。ポーランド王が空位となったことでポーランドには市民共和政が成立し、フランスの最も強力な同盟国の一つとなった。
大陸封鎖令、ロシア遠征、そして天下の崩壊
 ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を出し、イギリスの経済封鎖を試みた。しかし、ヨーロッパに数多い港からイギリスへの輸出を全て停止させることは現実的に不可能であり、1810年にはロシア帝国の覇権からの離反が決定的となった。これに対しナポレオンはロシア遠征を決行し、ポーランド=リトアニア共和国軍とともに100万を超える大軍でロシアに攻め込んだ。しかし、史実すらも超える大軍を支える兵站はロシアの冬と焦土戦術により破綻し、ナポレオンはロシアから撤退。更にライプツィヒの戦い(諸国民戦争)においてロシア・オーストリア・プロイセン・ザクセン連合軍に敗北し、ナポレオンの没落は決定的となった。
 戦後、ウィーン会議において、タレーランにより正統主義が主張され、欧州はその伝統的な国境に回帰した。懸案となったのはインド問題で、イギリスは占領下のマイソール王国をすべてイギリスに割譲させるよう要求したものの、フランスはマイソール王国の独立保障を要求。しかしナポレオンの復活により交渉妥結が急がれたことで、マイソール王国は英仏で分割されることとなった。また、戦中にフランスがアメリカに売却したミシシッピ川以東、五大湖以南のルイジアナ植民地はアメリカがそのまま保持することとなった。

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