ハプスブルク家

歴史
 ハプスブルク家は、「戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。」(羅:Bella gerant alii, tu felix Austria nube.)の一節で知られる中央ヨーロッパの大貴族にして、ドイツ諸邦の頂点に君臨するドイツ皇帝の一門である。その始祖は11世紀に現在のスイス中部にハービヒツブルク城(中世ドイツ語で「大鷹の城」を意味する)を築いたアールガウ伯の家系で、婚姻政策を通じてその所領をアルプス一帯に拡大した。オーストリア大公国にその本拠地を移してからはブルグント地方に狙いを定め、更に神聖ローマ皇帝を世襲した。カール5世の時代にはブルグント自由伯、ネーデルラント公、両シチリア王、スペイン王などを兼任し、全世界に広がっていたスペインの植民地の上に君臨して「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるまでになった。オーストリアとスペインはカール5世の弟フェルディナントと息子フィリップ(フェリペ)に分割相続され、大帝国は2つの家系に分かれて統治されることとなった。
 スペイン・ハプスブルク家は1568年から1648年にかけての八十年戦争(ネーデルラント独立戦争)に敗れて北部ネーデルラント7州の独立をヴェストファーレン条約で認めることとなり、更に度重なる近親婚の結果として1700年に断絶するなど衰退が目立ったが、スペインの後継者を巡ってのスペイン継承戦争を制したオーストリア・ハプスブルク家によって相続される。スペイン継承戦争はイル=ド=フランスやロワール、シャンパーニュなどフランス中部を支配していた大領邦であるブルボン家との間で戦われたものである。これに勝利したオーストリア・ハプスブルクは再び「太陽の沈まぬ帝国」となった。ハプスブルクは東方にもその領域を拡大し、2度にわたって首都ウィーンを包囲したオスマン帝国に大トルコ戦争を戦い勝利して1699年に結んだカルロヴィッツ条約により「聖イシュトヴァーンの王冠の地」と呼ばれる大ハンガリー全域を継承した。
 18世紀から19世紀にかけてはハプスブルク家にとって苦難の時代であった。1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が長子を欠いて死没したことにより男系男子相続のサリカ法に基づくハプスブルク家は断絶する。家督を継いだのは長女マリア・テレジアであり、これに反対するブランデンブルク=プロイセン王国(ホーエンツォレルン家)などがオーストリア継承戦争を起こした。ハプスブルク家はこの戦争でシュレージエンを失ったものの、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ公フランソワを神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位させることに成功し、更にボヘミアやハンガリーなど一連のオーストリア大公国外の領土を安堵されて大帝国を維持した。その後ポーランド=リトアニアによるモスクワ大公位を主張してのロシア侵攻(一般にロシア側からの呼称としては祖国戦争と呼ばれる)に加担する代償としてガリツィアを獲得し、その東方領土をさらに広げた。しかし、18世紀後半から19世紀初期にかけて、パリを中心に欧州を席巻した自由主義・民族主義の旋風に対しては、名門ハプスブルクも無傷ではいられなかった。Y.G.フィヒテにより行われた連続講演「ドイツ国民に告ぐ」は民族ドイツ人を国民国家建設へと駆り立て、ブルシェンシャフト運動などの一連の自由主義革命を求める行動に繋がった。「諸国民の春」と呼ばれる1848年革命の混乱と司教領の世俗化というその結末は、教会収入を帝国経営の財政に充てていた神聖ローマ帝国の維持を不可能にさせるものであった。1848年、カール大帝の即位から1000年続いた神聖ローマ帝国は崩壊した。
 新しいドイツ国家の在り方を決めるために、5月にフランクフルトで国民議会が開かれた。オーストリア大公ヨハンが摂政に選出され、ハプスブルクの当主であるフランツ・ヨーゼフは「ドイツ国民の皇帝」(Kaiser von Deutscher)に推載される。
領土一覧
  • ドイツ帝国
    • オーストリア王国(Königreich Österreich)
    • ボヘミア王国(Königreich Böhmen)
    • ブラバント公国(Herzogtum Brabant)
    • リンブルク公国(Herzogtum Limburg)
    • ルクセンブルク公国(Herzogtum Luxemburg)
    • フランドル伯領(Grafstadt Frandern)
    • チロル伯領(Grafstadt Tirol)

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