辛亥革命と袁世凱の時代

革命の開始

 革命の直接のきっかけは、1911年に清朝政府が米英独仏の4ヶ国から成る四国借款団から一千万ポンド、加えて日本から一千万ポンドの外債を借入し、以て鉄道国有化を図ったことである。これが民衆の大きな反発を呼んだのは、当時、革命勢力と結びついた地方の民族資本家による利権回収運動が進んでいたからである。元々外国資本を導入して建設された清の鉄道は外国資本による半植民地的搾取の温床と化しており、利権回収運動はこれを民族資本家が買い上げることにより外国利権を地道に回収していくことで外国資本を清から撤退させんとするものであった。ここに政府が、折角買い上げた鉄道をよりにもよって外債によってもう一度買い戻すことを図ったので、買い上げた鉄道を経営する民族資本家や民族主義者たちの怒りは頂点に達した。
 政府の鉄道国有令に対し各地で鉄道を守ろうと保路運動と呼ばれる反乱や暴動が頻発した。その中でも最大のものは川漢鉄道(武漢〜成都間の計画線)会社とその裏にいる中国同盟会(孫文をトップとする革命組織)を中心として起こった四川暴動である。四川暴動は軍隊の出動する事態となり、四川省に隣接する湖北省の保有する省軍である湖北新軍(鄂軍)が鎮圧に向かった。しかし湖北新軍は革命派が多く、鎮圧に行かずに10月10日*1、逆に駐屯地の武昌において反旗を翻し、司令官の黎元洪を首領として湖北軍政府を組織した。これが武昌起義(武昌蜂起)であり、中国四千年の帝政に終止符を打った辛亥革命の幕開けとなる事件である。

大清帝国の崩壊

 湖北軍政府に対して、清朝政府は中国最強の近代軍隊である北洋軍の半数を鎮圧に差し向けた。北洋軍内部の革命派を抑えるため、北洋軍の総司令官には罷免されていた袁世凱を就かせ、起義鎮圧に向かうため戦闘序列を発令された第一軍の司令官には直隷の馮国璋、後方の第二軍の司令官には安徽の段祺瑞を任命した。北洋軍は破竹の勢いで進撃し、武漢三鎮のうち長江の北側に位置する漢口と漢陽を11月1日までに陥落させ、革命派の本拠地である武昌に迫った。
 しかし、武昌で革命派が必死の防戦を行っている間に革命は11月末までに漢地十八省(長城線内の漢人が主に居住する省)のうち14省にまで波及し、清朝政府が掌握する省は直隷、河南、山東、甘粛の4省のみとなった。他に満洲の東三省は正規軍に成り上がった満洲馬賊の張作霖が革命派を粛清したことで清朝支持を維持し、蒙古の王侯族も民族主義的な革命派には敵対的であった。
 このような状況の中、清朝政府は袁世凱を10月27日に欽差大臣兼湖広総督に、11月1日に内閣総理に任命して革命派の鎮圧に当たらせた。しかし袁世凱は11月26日、革命派に対して宣統帝溥儀の退位と自らの総統就任を含む停戦条件を提示し、また快進撃を続けていた第一軍司令官の馮国璋を罷免して寝返りへと動き始める。年の明けた1912年の元旦、アジア初の共和制国家となった中華民国の臨時政府が南京を首都として成立し、亡命先のパリから帰国した孫文臨時大総統*2に就任した。続いて孫文が皇帝の退位と清室優待条件を提示し、条件が受け入れられるのなら自らが大総統職を辞して袁世凱に譲ることを表明すると、袁世凱は完全に革命派に寝返って自らの掌握する北洋軍の軍事力を背景に朝廷を説得し、2月6日に最後の皇帝となった宣統帝愛新覚羅溥儀は正式に退位。清朝は崩壊し、中華民国が中国を代表する正統政府となった。元号は宣統から代わって民国となり、1912年は民国元年となった。

「ストロングマン」袁世凱の独裁

 3月、中華民国臨時約法(憲法)の制定により完全に中華民国の権力を掌握した袁世凱は、北京兵変を理由に南京から北京へ遷都し、権力を確固たるものとした。1912年から北伐の完了する1929年まで、北京に首都の置かれ続けた中華民国のことを特に北京政府または北洋政府と呼ぶ。袁世凱は北洋軍の軍事力を背景として中央集権化を進め、連省派と呼ばれた地方分権派や議会制民主主義を主張する革命派を弾圧した。
 このような袁世凱の専制に対し、1913年7月には中国同盟会に代わり成立していた孫文ら国民党が反旗を翻して第二革命が起こったが、馮国璋を司令官とする北洋軍が討伐に出撃し、革命は鎮圧された。孫文は日本に亡命し、北洋軍は各地で日本人居留地に対する狼藉を起こした。革命の失敗により、国民党の党員はすべて中華民国議会の議員資格を失い、袁世凱の専制がますます強化されることとなった。
 袁世凱は1914年に入ると更に独裁的傾向を強め、1月に国会を「解散」させ、5月には大総統に独裁的権力を集中させる新しい約法を成立させた。このような状況で、特に袁世凱の周辺において帝政復活と袁世凱の皇帝就任の機運が高まっており、列強もこれを支持する姿勢を見せた。この時期の袁世凱は列強の外交官や記者から「ストロングマン」と呼ばれ、軍事力を背景とした中央集権的な統治体制が評価を受けていた。これは列強が中国に存在する権益を保護し、通商により安定した利益を得るために中国に安定した長期政権を必要としていたことが関係している。唯一、列強の中でも日本は亡命してきた孫文を保護し、孫文が東京で中華革命党を組織するとこれを非公式に支持した。

中華帝国の成立

 1914年6月28日、サラエボに響いた1発の銃声から世界大戦が始まると、中国でもドイツの膠州湾租借地を占領するため日本軍が山東省で戦うなど大戦の戦火が飛び火してきていた。しかし、世界はおおむね中国情勢に無関心であり、これをいいことに1915年1月、袁世凱政権に反発的であった日本は対華二十一ヶ条要求を突きつけて中国における更なる権益の拡大を狙った。
 これに対し袁世凱は徹底した遅延策をとり、列強に対し秘密条項を開示するなど欧米の対日評価を低下させることに腐心したが、在満鮮日本軍が動員を開始したことにより遂に主権侵害的な5ヶ条を除く16ヶ条に関してその要求を呑まざるを得なくなった。これによって国民の袁世凱に対する支持は低下したが、その引き換えに袁世凱は日本の帝政支持を取り付けた。
 1915年12月、議会は袁世凱の皇帝就位を決議し、満場一致で袁世凱を皇帝に推戴した。袁世凱は儀礼にしたがって一度は固辞し、二度目の推戴を受けて中華帝国皇帝への就位を宣言した。これにより一度は絶たれた中国の帝政が復活し、年号も変わって洪憲となった。前王朝である清朝もこれを支持し、袁世凱の娘と溥儀の婚約を取り付けたほどであった。しかし、民衆と革命派の多くは袁世凱を支持していなかった。

護国戦争と袁世凱の死

 袁世凱の帝政宣言に対し、最も反発したのが中国内地で最西南に位置する雲南省であった。北京から遠い雲南省には反袁世凱勢力が多く存在しており、また山岳に位置するためその兵も精強を以て知られていた。雲南将軍の唐継尭と前雲南総督の蔡鍔を中心とする勢力は12月25日に挙兵し、2万の軍勢が三軍に分かれて北京への進撃を始めた。護国戦争と呼ばれる内戦の始まりである。
 袁世凱はこれに対して曹錕を総司令官とする三路からなる北洋軍を差し向け、討伐に当たらせた。しかし北洋軍は四川省において、北洋第三師団を率いた「常勝将軍」呉佩孚の活躍にもかかわらず敗北し、更に年の明けた1916年1月に貴州省の劉顕世、広西省の陸栄廷が反帝政を掲げて謀叛に走ると曹錕らは日和見勢力と化した。更に列強諸国も中国国内の混乱をみて袁世凱支持をとりやめ、北洋軍随一の有力者である馮国璋からも帝政撤回を求める電報が届くと袁世凱は完全に味方をなくし、3月には帝政を撤回した。僅かに百日の天下であった。
 帝政撤回後も混乱は続いた。4月、奉天に馬賊上がりの2個師団を率いる張作霖が北洋軍中央派の段芝貴を天津に追放し、東三省の実権を掌握した。西南に加え正反対の東北で謀叛が起こっては袁世凱はたまらず、圧倒的な軍事力を持つ張作霖の支配を追認する他なかった。北洋軍第三の分派、奉天派の成立である。張作霖は東三省で「大帥」と呼ばれ、「東北王」としてその権力は1929年の爆殺まで続くものとなる。
 5月には四川、湖南、陜西と独立が続き、既に軍事的な実権をほぼ喪失していた袁世凱は度重なる反乱に対応しきれず、それが体調にも現れ始めた。袁世凱は衰弱し、6月、失意のうちに死去する。斃れた袁世凱の後を継ぐのは直隷の馮国璋、安徽の段祺瑞、湖北の黎元洪、奉天の張作霖といった北洋の軍事力を受け継いだ者たちであった。

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