1803年、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランス帝国に宣戦布告し、3度目となる対仏大同盟戦争が幕を開けた。ナポレオン率いるフランス軍はトラファルガーの海戦に敗北し、イギリス上陸をすることはできなかったものの、ウルム戦役に勝利してオーストリア本土へ侵攻し、アウステルリッツの三帝会戦に勝利したことでこの戦争におけるフランスの勝利を決定づけた。1805年に結ばれたプレスブルクの和約により、オーストリアは旧ヴェネツィア共和国領のフランスへの割譲など更なる譲歩を迫られた上、フランスと同盟を結んでライン同盟の形成に動いていた南ドイツの領邦に対しても領土割譲を行わざるを得なかった。
フランスの進撃とオーストリア・ロシアの敗北により、5月3日憲法の成立によって比較的開明的であったポーランドはセイムの決定により1805年にフランスとの同盟締結に踏み切った。これに対し、ザクセン選帝侯とポーランド王を兼ねるフリードリヒ・アウグスト1世はプロイセン王国と歩調を合わせてフランスへの対抗姿勢を鮮明にし
*1、両国は対仏大同盟に加わってここに第四次対仏大同盟が結成された。
しかし、プロイセン軍はイェナ・アウエルシュタットの戦いに敗北し、ロシア軍もフリートラントの戦いで壊滅したことにより1807年にティルジットの和約によって講和が成立した。これによりプロイセンはドイツ西部に持っていた所領を全てフランスの同盟国に奪われ、ザクセンも本土の半分をフランスの同盟国に占領された上にポーランド王を退位させられた。更にプロイセン、ザクセン、ロシアの三国はポーランド分割で得た領土を全て返還させられることとなった。ポーランド王が空位となったことでポーランドには市民共和政が成立し、フランスの最も強力な同盟国の一つとなった。