湖北軍政府に対して、清朝政府は中国最強の近代軍隊である
北洋軍の半数を鎮圧に差し向けた。北洋軍内部の革命派を抑えるため、北洋軍の総司令官には罷免されていた
袁世凱を就かせ、起義鎮圧に向かうため戦闘序列を発令された第一軍の司令官には直隷の
馮国璋、後方の第二軍の司令官には安徽の
段祺瑞を任命した。北洋軍は破竹の勢いで進撃し、武漢三鎮のうち長江の北側に位置する漢口と漢陽を11月1日までに陥落させ、革命派の本拠地である武昌に迫った。
しかし、武昌で革命派が必死の防戦を行っている間に革命は11月末までに漢地十八省(長城線内の漢人が主に居住する省)のうち14省にまで波及し、清朝政府が掌握する省は直隷、河南、山東、甘粛の4省のみとなった。他に満洲の東三省は正規軍に成り上がった満洲馬賊の
張作霖が革命派を粛清したことで清朝支持を維持し、蒙古の王侯族も民族主義的な革命派には敵対的であった。
このような状況の中、清朝政府は袁世凱を10月27日に
欽差大臣兼湖広総督に、11月1日に内閣総理に任命して革命派の鎮圧に当たらせた。しかし袁世凱は11月26日、革命派に対して宣統帝溥儀の退位と自らの総統就任を含む停戦条件を提示し、また快進撃を続けていた第一軍司令官の馮国璋を罷免して寝返りへと動き始める。年の明けた1912年の元旦、アジア初の共和制国家となった
中華民国の臨時政府が南京を首都として成立し、亡命先のパリから帰国した
孫文が
臨時大総統*2に就任した。続いて孫文が皇帝の退位と清室優待条件を提示し、条件が受け入れられるのなら自らが大総統職を辞して袁世凱に譲ることを表明すると、袁世凱は完全に革命派に寝返って自らの掌握する北洋軍の軍事力を背景に朝廷を説得し、2月6日に最後の皇帝となった宣統帝
愛新覚羅溥儀は正式に退位。清朝は崩壊し、中華民国が中国を代表する正統政府となった。元号は宣統から代わって民国となり、1912年は民国元年となった。