1.1937年当時の状況と爾後の軍拡
 日本陸軍は1937年当時、近衛、第1から12、14、16、19、20の17個師団を四単位制の常設師団として保有していた。他の常設戦力としては台湾歩兵第1、第2連隊から成る台湾混成旅団、関東軍の本来の任務である鉄道警備にあたる特設警備隊5個、小型機甲師団たる独立混成第1旅団、熱河省の警備にあたる独立混成第11旅団、そして支那駐屯歩兵第1、第2連隊を基幹として北支に駐屯する支那駐屯兵団がある。常設師団は普通、各衛戍地にあって警備任務を遂行するが、この時点では第1、2、4、12師団の4個師団が関東軍麾下にあって満州に駐箚していた。以上戦力が存在したものの日ソ戦争となれば満州防衛には最低14個師団を集中させなければならないという観測があり、第7師団を北樺太攻略のため、第19・20の両師団をウラジオストク攻略のため充当することを考えると満州国内の治安維持に割ける兵員が不足することとなる。これを憂慮した陸軍中央および関東軍は治安維持専用に6個師団を増設し、前線部隊を戦闘に専念させることを計画した。この計画に従って仙台、名古屋、熊本、金沢、姫路の各師管区で動員準備が進められ、これら師団は1938年4月に編成完結の見通しであった。
 しかし、これは天皇の勅裁や帝国議会の承認を得ないままに進められたため、第73回帝国議会において大きな論争の火種となった。最終的には天皇が事後決裁によって軍拡案を承認したこと、また北支の駐兵権拡大によって権益保護のための兵員が不足する見通しとなったことから議会も動員の必要性を認めた。本軍拡案では当初第21から26師団の師団番号を予定していたが、更なる師団増を見越して、また宇垣軍縮で廃止になった師団の地元感情を考慮して一部で宇垣軍縮で廃止になった師団番号を流用した。また、本軍拡案で編成された師団は帝国陸軍初の三単位制師団となり、治安維持のための機動力を強化されていた。
 帝国議会でなんとか承認を得ても動員は至難の業であった。折しも第二次上海事変が勃発し、陸軍はその対応に忙殺されているところで、たとえば第15師団の動員は名古屋師管区から行われるものであったが当の名古屋師管区は上海派遣軍として戦闘序列を発令され、上海で戦死者が続出していた第3師団の兵員補充に追われており、新規師団の編成は到底不可能であった。そこで第15師団はやむなく京都師管区をその大半の補充担任とし、当初の予定より3か月遅れの7月にどうにか編成を完結した。このような状況であったが、上海方面の時局は刻刻悪化し新規の実戦部隊を必要としていた。陸軍は特設師団として東京・宇都宮両師管区の担任で第101・第114師団を編成する傍らで新規師団の動員を行い、第13・第18の両師団が復活した。この両師団は事前の動員計画には組み込まれていなかったが、対ソ戦備の不足を憂慮する関東軍によって復活が推進され実現した。両師団は名目通り編成完結し次第上海事変に投入され、終結後に平時編制に復した。第101・第114両師団は完全な特設編成であったため通称号も存在せず、事変終結後ただちにその編成を解かれた。

1937年度に新設された兵団


2.1938〜1940年の陸軍動向
 1937年に九七式中戦車(秘匿名称チハ)が制式化され、量産体制に入っていたことから陸軍は戦車戦力の配備をいそぎ、既に編成されていた独立混成第1旅団を拡充して旧式のイ号中戦車を新鋭のチハ車で置き換えるとともに1942年までに4個戦車師団を編成して対ソ陸軍戦力の中核とすることが示された。この方針に基づいて陸軍は中戦車の増備を進めるとともに砲戦車の設計と開発を急務とし、回転砲塔に75mm山砲級を搭載する砲戦車甲と固定砲塔に75mm野砲級を搭載する砲戦車乙が設計を開始した。更に航空戦力の増勢も計画し、新型の九七式戦闘機などを中核とした全金属製単葉機で構成される近代的空軍を整備していた。このような様々な技術的進歩は、2.26事件や一連の北中支事変に伴い軍部の発言力が増していたことに起因するものである。1937年度予算において、軍事予算は事変に伴う臨時軍事費特別会計をあわせシベリア出兵時以来17年ぶりに過半を超えるまでに増大していた。
 この増大した軍事費は、研究開発及び既存軍備の近代化に使用されるほか、新たに獲得した勢力圏である北支の治安維持に使われていた。1938年3月に内蒙古の治安維持のため編成された独立混成第2旅団を皮切りに、満州在郷軍人や旧鉄道警備隊、内地の余剰人員などを母体として計8個独立混成旅団が編成され、うち6個旅団が北支の治安維持に当たった。この時に新編された独立混成旅団は従来の自動車化歩兵1個連隊、戦車2個大隊を基幹とするもの(独立混成第1旅団)、歩兵2個連隊を基幹とするもの(独立混成第11旅団、台湾混成旅団、支那駐屯混成旅団など)のいずれでもなく、独立歩兵大隊5個を基幹としてその他若干の騎兵、砲兵、装甲車、工兵等の部隊を編合する諸兵科連合の治安維持部隊であった。北支の治安維持のため編成された独立混成旅団の司令部所在地(展開地域)は以下の通りである。

北支派遣軍麾下各部隊の展開地域

 独立混成旅団の他に、対ソ・蒙・支戦備の一環として2個歩兵連隊の新設および既存師団からの連隊引き抜きによる師団の新設がおこなわれた。新設されたのは第24、第25の2個師団と関東軍直轄の歩兵第87連隊で、第24師団は海拉爾要塞、第25師団は中国共産党の抗日ゲリラの脅威が深刻化していた山西省に、歩兵第87連隊はシベリア鉄道を臨む要衝である虎頭要塞に配属された。虎頭要塞に関連して、1933年に設置されていた旅順重砲兵連隊が改編されて野戦重砲兵第9連隊となり、歩兵第87連隊とともに虎頭要塞司令部麾下に属した。第25師団麾下には衛戍地後背に広がる山地を活用した訓練により「丹波の鬼」と恐れられた山岳戦のエキスパート、篠山歩兵第70連隊が配属され、剿共作戦における戦果が期待されていた。
 この動きとは別に、ドイツの欧州における電撃的勝利に呼応した仏印進駐が行われようとしていた。仏印進駐は、当時関係が悪化しつつあった米国に依存する資源の自給促進や日本の国防上脅威となりうる国民革命軍の増強に歯止めをかける目的を帯びて実行され、実行には近衛歩兵第2連隊と大分歩兵第47連隊を基幹とする印度支那派遣軍麾下印度支那派遣歩兵団、および内地より動員された第5師団があたった。これら部隊は日本では貴重な完全機械化部隊で、機械化部隊の実戦経験を得る目的もあったようである。進駐は40年9月から行われ、日本軍は当初の協定に基づき所定の進出線で停止した。

1938〜1940年に新設された兵団


3.「関特演」と1941、42年の陸軍動向
 1941年6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦を発動してソ連に侵攻。松岡洋右外相や杉山元参謀総長はこれを「北進の機」であるとみて天皇に日ソ中立条約の破棄と即座の対ソ宣戦布告を上奏した。しかし「つい2か月前に松岡自身が締結した中立条約に違反して宣戦をするのは信義に悖る」とこれは天皇に突っぱねられてしまう。しかし、独ソ戦の推移をみて対ソ戦を決行するという方針を御前会議にて決定し、7月に参謀本部より動員令がくだった。この動員令により在満陸軍部隊は戦時定数の16個師団まで増強され、各師団は戦時定数を充足して即時開戦に備えるものとされた。当時満州に在していたのは満州駐箚の第1、第8、第10、第12、第15、第17、第21、第22の8個師団と戦車第1、第2師団、編成途上の戦車第3師団、ノモンハン事件で大損害を受け再建途上であった第23師団、そして独立混成第1、第8の2個旅団と各要塞の守備隊であった。動員令によりまずは第23師団の戦力を急速に回復し、また第28、第29、第30の3個師団の既存師団からの連隊引き抜きによる新編と第9、第11、第14、第16の4個師団の満州派兵が行われた。これにより在満陸軍兵力は歩兵16個、戦車2個の計18個師団となり、これに朝鮮軍の2個師団を合計して計20個師団が大陸方面における対ソ陸軍作戦に使用できる見通しとなった。また、これに関連して歩兵第25連隊及び樺太在郷軍人を基幹として樺太混成旅団が編成され、北樺太攻略作戦の目途もついた。また、内地より支那駐屯歩兵第3連隊が新たに動員され、これと既存の支那駐屯混成旅団を以て第27師団を編成し、対ソ戦に呼応した支那の動きに備えた。
 これとは別の動きとして、7月から8月にかけて南部仏印進駐が実行された。これは、日独伊三国同盟を締結した日本に対する米英の経済制裁の対象品目が拡大されたことに伴うもので、南部仏印を確保することにより日本の貿易相手を確保し、また軍事的観点からは英領各植民地にたいして軍事的圧力をかけることのできる立地と海軍基地を手に入れることが目的であった。進駐は従来の印度支那派遣軍を以て行われ、8月中には完了した。これに対し米英蘭は対日石油全面禁輸を以て応え、日本は一年半で石油が枯渇する危機的状況に陥った。事ここに至り、日本は42年春を予定していた北進(対ソ宣戦)を中止し、12月に蘭印進駐を決行することを決定した。蘭印進駐に向けては第5軍が新編され、仏印より転用した第5師団、歩兵第47連隊のほかに内地から動員する第2、第18の両師団、そして本作戦に向け新編された第1空中挺進団(空挺団)であった。空挺団は蘭印の石油精製施設や油井を無傷のまま奪取するために編成され、パレンバンやバリクパパンの油田攻略作戦に投入された。また、仏印に残留するのが近歩2連隊のみとなるため、仏印治安維持の要から第21、第22の両師団が関東軍より転用されるとともに独立混成第9旅団が新編され、第7軍を編成した。
 蘭印進駐はH作戦という秘匿作戦名称を付与され、12月8日夜半を期して開始された。蘭印軍は駆逐され、主要な油田は日本のものとなった。蘭印進駐がひと段落するとドイツはソ連と停戦をしており、もはや日本が北進をする余地は残されていなかった。一時は動員解除が検討されたものの、未だ極東ソ連軍は強大な存在であり、また前例にかんがみてドイツ軍が停戦をやぶり奥地に進撃することは十分考えられたため、関東軍はその60万以上にのぼる膨大な戦力を満州に抱えることとなった。一連の軍事行動に起因する軍事支出は天文学的数字にのぼり、いまや国家の歳出の7割以上が軍事費となっている。

1941、42年に新設された兵団


4.1937〜42年の軍拡総括と1943年度以後の軍備計画
 5か年にわたる帝国の支配領域と連動しての軍備の増強は、軍拡前の17個師団・4個旅団という陸軍編制から35個師団・11個旅団へとほぼ倍以上の増勢となり、その支配を確固たるものとするために不可欠な役割を演じた。しかし、それでもなお極東ソ連軍に対する備えは不十分であり、関東軍の質的側面の増強は必須であると見込まれる。今後の軍拡方針として、帝国は1943年・44年の2か年で新たに戦車師団2個と空挺団1個、4個野戦重砲兵旅団を常備軍として増勢し、また戦時となれば新たに第一次動員として10個師団と5個独立混成旅団を、第二次動員として15個師団と14個独立混成旅団を動員する計画ができている。これが実行されれば帝国の戦時戦力は60個師団と30個独立混成旅団を擁することとなり、これは「帝国国防方針」に基づく戦時50個師団の求めを大きく上回る。しかし師団は歩兵戦力の僅少な三単位制に改編されていること、また新たに動員される兵団の多くは火砲が旧式であることに留意をせねばならない。ノモンハンで壊滅した第23師団が示す通り、ソ連軍は高度に機械化された多数の兵団を擁し、その機械化により我が方を上回る兵力を瞬時に集結させることができる。
 今次軍拡が帝国臣民に強要する負担にも留意せねばならない。倍増した陸軍兵力の補充は、現在は徴兵検査の甲種合格基準を緩和し、また乙種合格を採用することによって賄っているが、現在の兵力から更に拡充するのであれば中等教育年限の短縮とそれに連動する徴兵期間の延長など、しかるべき措置を講じる必要がある。これが経済や市民生活に与える影響は言うまでもなく大きなものである。

(備考)1942年度帝国陸軍編制表


5.主要兵器生産状況等

5.1 砲兵
  • 九一式十糎榴弾砲:初期にフランス・シュナイダー社より300門を輸入。1941年から43年までの間に530門が生産されている。総生産数は1200門程度の為、1933年から1940年までの8年間に670門が生産された計算となる。1941年、42年の生産量を年産100門程度に直して計算すると日本の生産量は870門、シュナイダー社からの輸入分を合わせて1170門である。
  • 九〇式野砲:1941年以後に機動砲として550門が生産されている記録があるので、1940年以前の生産数は通常野砲200門、機動野砲50門の計250門に過ぎない。1932年から1940年までの9年間で250門であるから、この生産量を維持したとすると年産50門程度がやっとであり、通常野砲200門、機動野砲150門となる。
  • 九五式野砲:1940年までには九〇式野砲の生産に切り替えられていると推察される。総生産数は320門前後。
  • 三八式野砲:オリジナルタイプが3359門、改造三八式として製造されたものが500門程度存在するので、ストックは十分にあると推察される。しかし、これらの一部は段祺瑞政権や張作霖政権、ロシア白軍への軍事援助となっている可能性がある。
  • 四一式山砲:前期生産分が2000門程度であり、これを歩兵用として逐次改修しているものと推定される。後期生産が行われているかは不明であるが、行われていたとすれば追加で700門程度の生産である。歩兵連隊や独立歩兵大隊に配属するのは各4門であるから、現状の軍備であれば800門程度もあれば十分であるが、借款により提供していれば不十分であるため追加生産が行われていた可能性がある。
  • 九四式山砲:1936年より生産が行われている。42年までに1150門程度が生産されたと推定される。
  • 九九式十糎山砲:日中戦争が起こっていないためそもそも生産されていない。
  • 四年式十五糎榴弾砲:開戦後も細々と生産は続けられていた為、合計250門程度と推測される。第一線部隊の野砲兵連隊等に配属することも考慮に値する。
  • 九六式十五糎榴弾砲:開戦後の生産がほぼないので、生産されたのは500門程度と推測されるが、生産をこちらに注力していれば年産100門程度の供給ができるので700門程度の準備ができていると予想される。
  • 九二式十糎加農砲:十五榴に注力したのか、生産量が絶望的に少ない。1940年までに120門程度の生産があったと推測される。この生産量を維持すれば1942年末までの生産量は160門であるが、いずれにせよ雀の涙である。

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