はじめに

 「統帥綱領」とは、大日本帝国陸軍に於いて参謀として作戦立案に携わる、ごく一部の将官にのみ閲覧を許された軍事機密の戦略指南書である。主に軍隊の編制における「軍」以上の作戦指導について記したもので、帝国陸軍の参謀教育はこれを基礎として行われた。よって、「統帥綱領」は帝国陸軍の作戦方針そのものを規定した書ともいえる。「統帥綱領」は1914年に初版が、1928年に最後の改訂版が発行され、満洲事変から太平洋戦争まで至る十五年戦争で主に運用された。帝国陸軍は第一次世界大戦の戦訓を、そのイメージに反してかなり早期から取り込んだ軍隊であり、それがこの本にも反映されている。
 帝国陸軍という組織について現代人の知ることは少ない。それこそ、「帝国陸軍は精神論に支配された無能な軍隊であった」「日本を軍国主義へと導いた張本人である」くらいの認識しかないであろう。そして、戦後80年が経過しようとし、戦争を体験した方々が次々と鬼籍に入られていく中で、客観的な評価を維持するのは極めて難しい。「あの戦争」は、痛ましい過去から歴史の1ページへとなりつつあるのだ。帝国陸軍がこのような先入観と比べてかなり合理的な組織であることを理解するために、「統帥綱領」のような作戦書の類は適任であろう。
 本稿ではこの「統帥綱領」に関して、帝国陸軍の足跡を振り返りながら読解していこうと思う。各項においてまず平仮名に直した原文(本来はカタカナ表記であるが見やすさを優先した)を記し、次に<現代語訳と解説>の項で現代語訳を太線、解説を細線で記した。更に、大正から昭和初期にかけての文章であるため難解な熟語が多数登場することからこれらを解説するため語彙の項を附した。これとは別に原文の方にも適宜、ルビを振っている。本稿を通じて帝国陸軍に関して少しでも知って頂ければ幸いである。

第一 統帥ノ要義
  1.  方今の戦争はややもすれば国力の全幅を傾倒してなおかつ輸嬴ゆえいを決すること能はざるに至る。故に帝国はその国情に鑑み勉めて初動の威力を強大ならしめ、速やかに戦争の目的を貫徹すること特に緊要なり。即ち政戦両略の指導は悉くこの趣旨に合致せざるべからず。
  2.  政略指導の主とするところは戦争全般の遂行を容易ならしむるにあり。故に作戦はこれと緊要なる協調を保ち、殊に赫々たる僭称により政略の指導に威力ある支撑しとうを得しむること肝要なり。然れども作戦は元来戦争遂行のため最も重要なる手段たるを以て、ただに政略上の利便に随従すべからざるのみならず、その実施に当たりては全然独立不羈なるを要す。抑々この両者の関係は最高統帥の律するところにして、その直属の高級指揮官は能くこれが方針を体して事に従うべく、爾他の指揮官にありては専念作戦の遂行に努力すべきものとす。
  3.  作戦指導の本旨は、攻勢を以て速やかに敵軍の戦力を撃滅するにあり。これがため迅速なる集中、溌溂たる機動及び果敢なる殲滅戦は特にとうとぶ所とす。
  4.  統帥の本旨は常に戦力を充実し、巧にこれを敵軍に指向してその実勢か就中その無形的威力を最高度に発揚するにあり。蓋し輓近の物質的進歩は著大なるを以て、妄りにその威力を軽視すべからずと雖も、勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること古来変る所なければなり。いわんや帝国軍にありては、寡少の兵数、不足の資材を以て、なお能く叙上各般の要求を充足せしむべき場合僅少なからざるに於いてをや。即ち戦闘は将兵一致、忠君の至誠、匪躬の節義を致し、その意気高調に達してついに敵に敗滅の念慮を与えうるに於いて初めて能くその目的を達するを得べし。
  5.  敵軍の意表に出づるは、戦勝の基を啓き、その成果を偉大ならしむる為特に緊要とす。即ち追随を許さざるの創意と、旺盛なる企図心とにより、敵を制せざるべからず。而も単に用兵の範囲に於いてこれを求むるのみならず、科学工芸の領域に於いても亦これに勉むるを要す。戦争間その経過に伴う幾多の教訓は、諸般事象の改変と相まち必ずや戦法その他の革新を促すべきを以て、絶えず戦績の攻究に勉むると同時に、将来の推移を洞察しかつ機会を求めて必要なる訓練を加え、常に最善最妙の方策によりて敵軍の機先を制すること緊要なり。
  6.  巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献するところ少なからず。故に作戦軍も亦一貫せる方針に基づき、敵軍若しくは作戦地住民を対象としてこれを行い、以て敵軍戦力の壊敗等に勉むること緊要なり。殊に方今の戦争は軍隊と後方国民との間、形而上下共に彼此相関連して互いに交感を受くること益々多きに於いて然りとす。
  7.  統帥の妙は変通窮りなきにあり。すべからく千変万化の情況、就中彼我の実力、敵軍の特性及び作戦地の特質に応じて、各々適当の方策を定むるべく、みだりに一定の形式に捉われ、活用の妙機を逸するが如きは厳にこれを戒めざるべからず。
<現代語訳と解説>
 「第一」においては「統帥ノ要義」と題して、これからの戦争の様相に関する考察と、それに対して帝国陸軍の採るべき策を論じている。ここで注目すべきは帝国陸軍が大日本帝国の「国情」を正確に把握し、その乏しい国力をフルに活用して戦に勝つ方法を論じていることである。精神主義も触れられてはいるものの、基本的には物質主義に立脚して記述されていることは、帝国陸軍について考えるときに着目せざるを得ない点であろう。
 本項では「作戦指導」と「統帥」が概念として出てくる。ここでいう「作戦指導」は何らかの戦略的目的を達成するために軍や方面軍などの高級司令部が立案する作戦のことで、麾下の師団や聯隊などを「指導」して作戦を行うことからこのようにいわれる。「統帥」は古い言葉であるが帝国憲法第十一条、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などでも聞き覚えがあるであろう。軍全体を統率し、軍令・軍政の両面において戦争遂行そのものを指導することである。即ちここには、単純な軍事作戦の実施のような表面的なことだけではなく、兵器・弾薬の生産や部隊の編制・動員などの兵站に類する事業も含まれる。
  1. 最近の戦争は国力のすべてを投じてもなお、勝敗を決することができない。よって日本はその国力を鑑みて緒戦で敵に大打撃を与え、短期決戦の戦略でいくべきである。政治と戦争、双方の戦略はこの考えに立脚すべきである。
    第一項は全般の戦略に関して述べている。「総力戦」となった第一次世界大戦の戦訓を反映し、国力を消耗させないためには戦争を泥沼化させないことこそ肝要であるという認識が示されている。支那事変や独ソ戦などはこの考えに「合致せざる」ものの典型例であって、当時の帝国陸軍的には忌むべきものであったことを考えると、その後の歴史の展開は実に口惜しい。
  2. 戦争に於ける政略指導は、戦争全般の遂行を支えるためにある。よって作戦は政略と緊密に連携し、最大限のシナジー効果を発揮するべきである。しかし作戦は戦争に勝利するためにあるのであって政治のためではないので、政治上の要求から作戦を実行することはあってはならないことである。そもそも、この両者は最高統帥(=大元帥たる天皇、最高戦争指導会議など)が制御すべきものであって、軍人はそのいうことを聞き、作戦の実行に全力を尽くせばよい。
    第二項は「戦争」と「政治」の関係性に関してである。戦争遂行に対する政治の影響力を認めたうえで、その妥協点を国家の頂点で見出し、しかし政治の都合で戦争遂行が妨げられてはならないと喝破している。チャンドラ・ボースとの関係からインパール作戦を強行した東條英機はもちろん、「アイ・シャル・リターン」の一言と大統領の椅子のために対フィリピン侵攻を認めさせたダグラス・マッカーサーにも痛く刺さるであろう。
  3. 作戦指導の本旨は攻勢にある。攻勢により速やかに敵戦力を撃滅すべきである。このための迅速な戦力の機動と集中、それによる殲滅戦は推奨されるべきものである。
    いつもの帝国陸軍の「攻勢」推しである。しかしただの「攻勢」ではない。戦力の機動と集中による迅速な包囲殲滅戦を推している。自動車化が遅れ、米英独ソなどの列強各国と比べると何かと動きの遅さが目立つ日本軍であるが、少なくともコンセプトの上では機動戦を重視していたということがここでもわかる。
  4. 統帥の本旨は常に戦力を充実させ、これを適宜集中させることによって敵軍に対し最大限の威力を発揮させることにある。思うに、最近の科学技術の進歩は著しいものがありこれを軽視することはできないが、戦争の決着に対する精神的要素の影響は侮れるものではなく、ここは古来より変わらない。特に我が軍においては物資が不足する中でも作戦目標を達成せねばならないことがある。よって、戦闘に際してはよく団結した部隊によって精神を高揚させ敵をその威力により敗走させることを留意すべきである。
    統帥に関する事項であるが、ここでは精神主義を見て取ることができる。しかし、それも帝国陸軍が無闇に精神主義に走ったわけでないことがわかる。「寡少の兵数、不足の資材」が「場合僅少なからざる」という、慢性的な物資不足に悩まされる帝国陸軍において、兵士の士気を保つため「統帥」の創意工夫として精神論が唱えられたに過ぎないのである。帝国陸軍の物資欠乏は日露戦役の頃よりの話であり、主に砲兵弾薬の不足に悩まされていた。補給路の改善などなら陸軍にも努力の余地があるが、これは基礎的工業力の乏しさに起因するものである。如何ともしがたく、精神論に頼らざるを得なかった。
  5. 敵軍の意表を衝くことは勝利を築くため特に重要である。すなわちその創意工夫によって敵を制することである。これは必ずしも用兵の範囲にとどまらず、技術開発に当たっても留意すべきものである。戦争は進行するにしたがって戦訓が積み重ねられ、それに応じて敵も新たな戦術をもって臨んでくるのであるから、常に研究を怠らず敵の一歩先を行く作戦で敵の機先を制するべきである。
    これを読むであろう参謀本部の高級将校たちに向けた、「常に研鑽を怠らざるべし」というメッセージであるとともに、戦場における奇襲の重要性を強調したものである。先ほどの第3項、機動戦と包囲殲滅からも分かる通り帝国陸軍は奇襲を重視する軍隊であった。そして書かれている通りこれは技術開発にも応用され、「絶対に他国が開発しないであろう」珍兵器の数々が開発されていったのである。
  6. 民衆宣撫や謀略などは適切に行えば作戦に大きく貢献する。そのため、作戦を行う軍もまたその方針に基づいて敵軍や民衆に対して工作を行い、敵軍や敵国を内部から瓦解させる努力をすることが重要である。最近の戦争は軍隊と国民の距離がますます近くなり、その関係性が深化していることから、これを行うことが重要であると認識する。
    支那事変や太平洋戦争などで「特務機関」が行った民衆宣撫工作などに関する記述である。敵軍に対する工作というのは降伏勧告や士気喪失のための工作などのことであろう。ともあれ、暗号などがアメリカに完全に露呈していた海軍に比して陸軍がこうした情報工作を重視していたという事実は注目に値する。そしてまた、このような民心掌握の方策が、特に支那事変ではまったくと言っていいほど役に立たなかったこともである。
  7. 統帥の妙は変幻自在に兵を動かすことにある。目まぐるしく変化する戦場の情況に対応するためには時に教本通りの型にはまった行動は適切ではなく、そのようなときは創意をもって適切なる作戦指導を施すべきである。
    …当時の陸軍首脳部が、いわゆる「ステレオタイプ」の陸軍参謀の増殖を憂慮していたことがわかる。陸軍大学校で教わった通りの動きしかできず、応用が効かない将軍や参謀は時として戦場で有害な存在にさえなり得る。そのため、作戦を立案する時は型にはまった動きだけではなく、敵をよく見極めた柔軟な思考が重要であると論じている。上で述べられている「機動戦・包囲殲滅」の原則は中国の非正規軍ギリギリのような軍隊相手には効いたが、精強な米英の正規軍を相手にしたときその作戦を実行した帝国陸軍のステレオタイプ将官はビルマやニューギニアで地獄を見たのであった。この統帥綱領に記されている、帝国陸軍の作戦原則とこの創意工夫の推奨というのは相反するものであったが、今少しこの統帥綱領を各将官が読み込んでいれば…と思うばかりである。
<語彙>
  • 方今:最近の。
  • 輸嬴:読みは「ゆえい」「しゅえい」。「輸」が勝利、「嬴」が敗北を意味し、あわせて勝敗という意味。
  • 支撑:現代中国語でサポート、補助などの意味を持つ。
  • 輓近:近頃の。最近の。
  • 匪躬:わが身を顧みず、主君または国家のために忠節を尽くすこと。「易経」より。
第二 将帥
  1.  軍隊指揮の消長は指揮官の威徳にかかる。苛も将に将たる者は高邁の品性、公明の資質及び無限の包容力を具え、堅確の意志、卓越の識見及び非凡の洞察力により衆望帰向の中枢、全軍仰慕の中心たらざるべからず。
  2.  高級指揮官は大勢を達観し適時適切の決心を為さざるべからず。これが為常に全般の状況に通暁し、事に臨み冷静熟慮するを要す。然れども徒に判断の正鵠を得るに腐心して機宜を誤らんよりは、寧ろ毅然としてこれを断ずるに勉むるを要す。而してたとえ決心に疑惑を生じたる場合と雖も自ら主動の地位に立ち、以て動作の自由を獲得せざるべからず。蓋し一度受動の地位に陥らんか、兵団の大なるに従いこれを脱逸すること益々難しきを以てなり。
  3.  高級指揮官は常にその態度に留意し、殊に難局に際しては泰然動かず沈着機に処するを要す。而して内に自ら信ずる所あれば即ち森厳なる威容自ら外に溢れて部下の嘱望を繋持し、その志気の振作し以て成功の基を固うするを得べし。
  4.  高級指揮官は夙に部下の識能及び性格を鑑別して適材を適所に配し、たとえ能力秀でざるものと雖も必ずこれに任処を得しめ、以てその全能力を発揮せしむること肝要なり。又賞罰はもとより厳命なるを要すると雖もみだりに部下の過誤を責めず、適時これに樹功の機会を与え、以て其の溌溂たる意気を振起せしむるを要す。
  5.  高級指揮官は用兵一般の方法に通ずるのみならず、なおかつ我が軍の真価を知悉し、予想する敵国及び敵軍ならびに作戦地の事情に詳しくならざるべからず。故に居常自ら研鑽を重ぬる外、進んで軍隊及び後進に接し、親しく駿進の気運に触るるとともに、これに己の蘊蓄を伝えかつ世界の大勢特に隣邦の情勢を明らかにし、以て作戦の指導に関し既に戦争の初動より秋毫の遺憾なきを期するを要す。
<語彙>
  • 消長:物事が衰えて消えるか伸びて盛んになるか、というなりゆき。
  • 威徳:おかしがたい威と人に尊敬される徳。
  • 帰向:心がある方向に向かうこと。
  • 仰慕:尊敬し、仰ぎ慕うこと。
  • 森厳:身が引きしまるようにおごそかなさま。
  • 知悉:悉ク-知ル。ありとあらゆることを知っているさま。
  • 秋毫:いささかの、わずかの。(後に打消しの語をつけ「〜ほども許されない」というような意で用いる)

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

架空国家関係メモ

軍事関係メモ

編集にはIDが必要です