日本の近代化

 嘉永六年の黒船来航以降、日本では幕府将軍ではなく天皇陛下を主権者とし、外国に対して強硬的な態度をとるように求める尊皇攘夷運動が盛んになっていました。その中心となっていたのが薩摩、長州の二藩でした。薩長、朝廷側と幕府の対立は日増しに深刻なものとなり、遂に慶応三年の神無月十四日に討幕の密勅が下され、二十一日には京都の討幕軍主力や江戸の薩摩藩邸にて討幕の兵を挙げ、幕府軍と討幕軍は京都でまさに戦端を開かんとしていました。しかしこの討幕の密勅は正式な手続きを欠いており聖上の御聖断に非ざること、また討幕軍が浪人による騒擾を主導していたことが明らかになると、討幕軍の旗色は一気に悪くなりました。こうして慶応四年二月、二条城内の和議にて討幕軍側はその矛を収め、またここで日本の大幅な改革が取り決められました。
 ここで取り決められた内容は慶喜の改革案や坂本龍馬の「新政府綱領八策」を下敷きとしたもので、以下の通り。
  • 上下院ヲ設置シテ天下ノ事ハ宜シク公論ニ決スヘシ
  • 律令及諸法度ニ替リタル無窮ノ新法ヲ制定シ其効力天下ニ行渡ルヘシ
  • 各藩ハ其財政ヲ幕府ニ一任シ藩臣各々定額ノ俸給ヲ受取ルヘシ
  • 皇国ノ士ハ皆宜シク聖上ノ命ヲ受クル将軍之ヲ指揮スヘシ
    • 特ニ各藩ノ差出タル御親兵ヲ以テ禁中ヲ守備スルコト緊要ナリ
    • 之トハ別ニ各藩ハ一千石中十人ノ兵ヲ皇国ニ差出スヘシ
  • 禁中並公家諸法度ヲ改メ改元ハ聖上畏クモ御崩御セル時ノミ為スヘシ
 この定めに従い、明治四年に元老院が設置された。元老院は参勤交代の制度を利用し、一年ごとに東国元老院と西国元老院を開き、国事を議論することが目的であった。

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