作戦実行決定までの経緯

 1945年8月6日、アメリカ軍によってTNT換算で15ktの威力を持つ新型爆弾が広島に投下され、広島市は文字通り消滅した。9日、長崎にも同様の爆弾が投下され、長崎市の浦上地区も地図上から消えた。史上初の都市への核攻撃として知られるこの2発の原爆投下は、日本首脳部に戦争継続を諦めさせるものとはならなかった。しかし8月8日深夜、極東ソ連軍が日ソ中立条約を破って越境攻撃を開始すると、鈴木貫太郎首相を中心とする日本軍首脳は本格的にポツダム宣言を受諾し、長く続いた戦争を遂に終わらせる検討に入った。8月10日、検討の結果、日本政府は同盟通信を通じて「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざること」(国体護持)を条件にポツダム宣言を受諾する旨を連合国に向けて発信した。日本は遂に戦争を終結させるその一歩を踏み出したのである。しかし8月12日、アメリカ国務省のジェームズ・F・バーンズ長官を中心とする外交グループによって提示された回答書(バーンズ回答書)は、国体護持を含むいかなる日本側からの要求も認められないとして、あくまで「無条件降伏」を求める内容となっていた。これには既に病床にあったといえども政府内に強い影響力を持っていたフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の意向が反映されたといわれる。経緯はどうあれ、これによって日本政府はポツダム宣言受諾を行うことなくあくまで戦争遂行を継続する方針を決定し、アメリカはもはや無益となった戦争を終わらせる機を逸した。
 一方、戦争終結が遠のいたことで極東方面のアメリカ陸軍を指揮するダグラス・マッカーサー元帥、そしてアメリカ太平洋艦隊を指揮するチェスター・ニミッツ提督は、検討されていた日本本土上陸作戦「ダウンフォール作戦」を実行する決意をいよいよ固めざるを得なくなった。8月8日に対日参戦を布告したソ連の進撃はアメリカ軍首脳の希望的観測に反し、まったくスピードを緩める気配を見せなかった。ソ連が千島列島最北端の占守島に上陸して日本本土に最初の一歩を踏み入れた8月17日、満洲方面ではザバイカル戦線が大興安嶺山脈を突破して満洲の大平原に足を踏み入れ、東部の主要都市牡丹江が陥落し、北部の孫呉では10kgの爆弾を歩兵が抱いて赤軍の戦車に突っ込む絶望的な防衛戦が繰り広げられていた。北朝鮮には海軍歩兵の上陸が相次いて防衛線を後退させる決定が下されたばかりであったし、樺太では西側への海軍歩兵の上陸によって日本軍は政庁のある東半分へと追い詰められているところであった。極東ソ連軍は早晩、北海道への上陸を行い、日本本土を蹂躙するであろうと予測されたため、ダウンフォール作戦は当初の予定とは異なり、関東上陸作戦「コロネット作戦」を優先させることが決定された。
 当初九州上陸作戦「オリンピック作戦」に予定されていたXデーであった11月1日はコロネット作戦のXデーとされた。オリンピック作戦の趣旨は九州南部の確保によって関東方面の作戦に直協可能な航空基地を提供し、侵攻軍将兵の被害を局限することが目的であったが、ソ連軍の南下が間近に迫っている今、そのようなことを言っている余裕はなかった。航空支援ならば硫黄島の基地から発進するP-47やP-51からも提供できたし、何より広島と長崎に投下された破滅的な爆弾は11月1日までに10発が追加で用意でき、その後も月産7発のペースで量産することができると考えられていた。更に、九州に戦線を構築することは日本軍が大陸に増援を送る妨げになるとも考えられた。日本軍が満洲と朝鮮の戦線において極東ソ連軍を長く足止めしてくれることは、既に欧州方面で見え隠れしていた冷戦という戦後の新たな秩序を見据えて、アメリカの勢力圏を増やすことになると考えられたからである。こうして、敵であるはずの日本軍をアメリカ軍が戦略レベルで応援するという、非常に奇妙な状況が構成されつつも、史上最大の上陸作戦となるであろう関東上陸のXデーは刻々と近づいていた。

日本軍の状況

各部隊の状態概説

噴進砲部隊
 本土決戦においては噴進砲部隊が多数用いられる予定であった。

第11方面軍

 第11方面軍は東部軍管区から分離された東北軍管区を守備する部隊として編成され、主に太平洋側への上陸に備えた。
第50軍
第157師団
  • 種別:歩兵師団(沿岸配備師団)
  • 通称号:護弘
  • 編成時期:1945年2月28日(第一次兵備)
  • 補充担任:弘前師管
  • 麾下部隊
    • 師団司令部()
    • 歩兵第457聯隊
    • 歩兵第458聯隊
    • 歩兵第459聯隊
    • 歩兵第460聯隊

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