第一次世界大戦
日本が出兵したことにする。ありがちな「対潜水艦戦を経験したことによって海上護衛の重要性に目覚める」…かどうかはわからないが、とりあえず陸軍が勝って海軍が負けることにする。海軍は具体的に言うと二等駆逐艦5隻を地中海と大西洋の船団護衛任務で失い、ユトランド沖海戦で巡洋戦艦1隻(金剛)轟沈、1隻(比叡)大破の損害を受けた。一方で陸軍はドイツ軍の1918年春季攻勢に対してパリにせまりつつあるドイツ軍の戦線後背を森林への浸透によって脅かし、アメリカ大陸派遣軍の到着とともに第一次大戦勝利の大きな立役者となった。世界最強の巡洋戦艦戦隊が撃破されたという衝撃的な報と同時に艦隊決戦による勝利は戦争の勝利と直接結びつくわけではないという意識を国民に浸透させ、計画されていた「八八艦隊」は頓挫を余儀なくされた。一方で陸軍はその発言力を増し、戦争終結後に率先して軍縮を行ったこともあって国民の好感度は高かった。
1920年代の大艦巨砲主義
日本は1920年時点では、とりあえず八四艦隊で妥協しなければ予算が通らないので八四艦隊を目指す方向でいた。1920年に通った八八艦隊案はアメリカが三年艦隊計画(ダニエルズ・プラン)の次に計画していた軍備増強案が否決され、1921年度予算以降で戦艦3隻・巡洋戦艦1隻の増勢しか認められなかったことを反映し、主力艦の新規建造は戦艦4隻のみである。この頃日本は戦艦と巡洋戦艦を統合した高速戦艦を12隻配備し、不足する戦艦4隻分を個艦の性能で補うことによって米海軍と互角に渡り合う個艦優越主義を構想しており、1921年度に2隻、1922年度に1隻、1923年度に1隻の起工が計画された紀伊型戦艦はこの構想に則ったものであった。
一方そのころアメリカでは、16インチ砲を搭載する低速の「標準型」戦艦10隻とレキシントン級巡洋戦艦6隻をたった3年で整備する三年艦隊計画を議会に承認させ、次なる軍備拡張に取り掛かっていた。1921年度予算では戦艦3隻、巡洋戦艦1隻の建造を承認させ、1922年度以降も第二期拡張として3年間で18インチ砲を搭載する新設計の戦艦6隻と巡洋戦艦3隻を建造することになっていた。この計画が完成すればアメリカ海軍は第一線艦隊として14インチ砲艦11隻、16インチ砲艦16隻、18インチ砲艦13隻の計40隻を保有することとなり、イギリス海軍の13.5インチ砲艦18隻、15インチ砲艦16隻と日本海軍の14インチ砲艦8隻、16インチ砲艦12隻を合計した場合でも優位に立つとされていた。
その一方、イギリスは16インチ砲9門を装備するG3型巡洋戦艦を4隻建造するにとどまっていた。1921年のワシントン会議でアメリカはこの大建艦計画を背景として主力艦日米英比「10:8:5」を主張し、日英から大きな反発を食らって会議は決裂した。そのため軍縮会議は1927年のジュネーブ海軍軍縮会議まで持ち越されることとなる。