軍艦比叡は大日本帝国海軍の戦艦(高速戦艦)。艦艇類別等級表の上では比叡型練習戦艦一番艦、竣工時は金剛型巡洋戦艦の二番艦である。日露戦争後の軍備拡張計画による装甲巡洋艦として計画され、1911年に一番艦「金剛」の設計図を基に起工。1914年に竣工した、帝国海軍の中でも最古参の艦艇である。比叡を含む金剛型巡洋戦艦4隻は竣工当時世界最強の巡洋戦艦部隊として名をとどろかせ、生みの親である英国から貸与の要請が来るほどであった。当時の英国主力艦であるライオン級戦艦が34.3cm(13吋)砲を搭載していたのに対し、金剛型の搭載していたのは35.6cm(14吋)砲であった。金剛型は続いて建造された扶桑型、伊勢型とともに、第一次大戦期の帝国海軍主力艦部隊を構成した。
比叡は1922年締結のワシントン海軍軍縮条約では辛くも廃艦を免れたものの(金剛型の前級である伊吹型巡洋戦艦や河内型戦艦は、同条約により廃艦ないし特務艦転用となった)、1931年締結の第一次ロンドン海軍軍縮条約ではその影響を受けることとなった。金剛型戦艦のうち一隻が練習戦艦として現役から離脱することが決定され、比叡がその任に就くこととなったのである。比叡は4番砲塔を撤去され、27.5ノットの速力を18ノットに制限された。しかし比叡は練習戦艦としてその任を全うしたほか、聯合艦隊大演習や観艦式などでは大元帥たる天皇の座乗する御召艦として度々指名された。その後も比叡を御召艦とする習慣は続き、1935年には来日する満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀も大連港から下関港までの移動で比叡を御召艦としている。天皇旗を掲げた比叡は切手にもなり、帝国海軍を代表する軍艦として長門、陸奥とともに親しまれた。
日本の第二次ロンドン海軍軍縮条約脱退により、比叡は公然と再武装を許可される。大改装により比叡は速力30ノットを発揮する高速戦艦として生まれ変わり、巡洋艦主体の夜戦部隊を支援する第三戦隊に配属された。金剛型戦艦4隻で構成される第三戦隊は帝国海軍で一番艦齢の古い戦艦で構成される戦隊であったために半ば便利屋として扱われ、支那事変に際しては東シナ海・南シナ海上で海上封鎖作戦に従事している。1943年の事変終結後も北支で頻発する暴動にしばしば警備行動を行った。
金剛型戦艦は八雲型巡洋戦艦の就役と前後して廃艦、除籍となったが、御召艦の歴が長く国民に広く愛され、諸外国においても「
天皇陛下のお気に入り」として認知されていた「比叡」のみは練習戦艦籍に復帰することで廃艦を免れた。1950年代以降は香取型巡洋艦とともに士官候補生の練習航海に用いられるほか、天皇の御召艦として活動し、任務のないときは呉・柱島泊地にその雄姿を浮かべている。
要目 |
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全長 | 224.5m |
全幅 | 34.6m |
基準排水量 | 39,130t |
主機 | 艦本式オール・ギヤードタービン4基4軸 出力82,000馬力 |
主缶 | ロ号艦本式缶大型4基・小型6基 |
速力 | 25ノット |
兵装 | 三年式41cm(45口径)連装砲4基8門 四一式14cm(50口径)単装砲18門 九八式10cm(65口径)連装高角砲7基14門 戊式40mm(70口径)連装機銃23基46門 |